『咆吼の猫』の木菟視点でのお話になります。

この段階では夢主出てこない上にえげつない表現があります注意。

真庭木菟は伊賀由来の出自を持つ。

父親は伊賀者で、母親もまた伊賀者だった。
元来生粋の伊賀者であるはずの彼であったが、その生まれは伊賀にない。
伊賀の里を抜け出してきた父と母が行き着いた先の真庭忍軍で、彼は生まれた。
だから、彼には『真庭木菟』以外の名前がない。
父にも母にも、真庭忍軍に来る以前の名前が確かにあって、夫婦二人で過ごすときにはその真名で呼び合っていたけれど――彼は、『木菟』としか、呼ばれたことがなかった。
父と母は、彼にしのび以外の名前を付けなかったけれど、それでも二人は、彼にひたすら教え続けた。
しのびとは何たるものかを。
彼が幼いながらに抱いていた、両親への憧れも何もかも押しつぶしたまま。
いろはから何から、全て彼に叩き込んだ。
真庭木菟が、後に彼の代名詞となる忍法、吹聴風を自ら開発し会得したのは、僅か六つの歳のときである。
もしかすると、そのとき既に彼は、完全なるしのびとして開花していたのかもしれない。
同じ年、伊賀の裏切り者としての両親が真庭の里に潜伏していると、伊賀の里の者に悟られてしまったとき、
百害あって一利なしと、両親を殺したのは、他でもない彼だったのだから。

＊

「終わったぞ」

最低限聞こえるであろう程度の声量で木菟はそう告げると、黒い装束を纏った男の背後に降り立った。
黒装束の男の肩が、驚いたかのように大きく跳ねる。「あ、あぁ」と呟くように返事して、男は木菟を振り向いた。
その振り返った顔を見て、木菟はやや眉を寄せた。男の顔の頭巾に隠されていない部分に、不自然な脂汗が浮かんでいたからである。

「傷を負ったのか」

黒装束の男が辿ってきたであろう道のりは、確かに血の痕が点在していた。
男は一瞬怯む動作を見せたが、やがて意を決したように「あぁ」と呟く。黒い装束は脇腹の辺りで裂けていて、月明かりに反射しててらてらと光っていた。

「思ったより腕の立つ武芸者がいてな…油断した」
「改過自新だ。これで押さえていろ」

淡々とそう言って、木菟は帯に挟めてあった布きれを男へ差し出した。その間も流れ出る血は止まることなく、男は小さく呻いて、それを患部へと押し当てる。
木菟はその様子を見て、「行くぞ」と急かした。こんな所に長くいる謂われはない。


男は覚束ないながらも、しのびらしい足取りで地面を蹴り出した。
草や枝が二人の頬を掠めていく。木菟は足を止めない。男の速さに合わせているため、木菟の足取りも普段のそれと違いはあるが、その目は真っ直ぐに一寸先の闇を見つめていた。
そんな様子の木菟を見て、男は徐に口を開く。

「あんたのことは、」

そこで木菟は、その大きな目を男へ向けた。
その奥で渦巻いているものが何なのかは、男にはわからない。

「忍者の鏡みてぇな奴だって聞いてたから、どんな奴かと思ったが…協調性はあるんだな」
「そうか」

その言葉は、ともすれば自分が肯定的に受け取られたことへの決まりの悪さに起因するものとも捉えられそうではあったが、この場合においては、違う。
――不意に、男の身体が妙な方向へ傾いだ。

「…思ったよりも効きが悪かったな」

そこでようやく、木菟は今まで休むことなく動いていた足を止めた。
ぽつりと独り言のように呟いて、体勢を崩したまま既に立つこともままならない男を見下ろす。

「…な、ん……」

舌が回らない。
男はただ、己を見下ろす木菟を見上げることしか、できない。
その色々な負の感情が綯い交ぜになった瞳から、木菟は確かに真意を汲み取った。

「神経に作用する薬物だ。遅効性であることはわかっていたが、どうにも効果が現れるまでの時間が明瞭としない」

まぁ、確かに死ねる量は塗布してあるが――と、
淡々と、木菟は告げる。その目が映しているものもまた、淡泊で冷淡な色だった。
男の目が、僅かに見開かれた。
瞳孔は確かに、拡散してゆく。
木菟は男の持っていた布――自分が渡した布を、その手から奪い取った。

「…流石に、これはもう使えんな」

血に塗れた布きれを、残念といえば残念そうに見つめながら、木菟は小さく息を吐いた。
だがまあ、これで暫くの時間は稼げるだろう。上手くすれば、これでもう追跡の心配はなくなるやもしれない。
男の死体を見遣り、一拍置いた後、木菟は再び地面を蹴った。
ただの死体の確認だった。


10.11.24